秘伝の技術に“観光”という名の付加価値を。500年以上続く伝統工芸の担い手

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秘伝の技術に“観光”という名の付加価値を。500年以上続く伝統工芸の担い手
2018/04/16 (月) - 07:00
中河 桃子

室町時代から続く伝統産業・茶筅(ちゃせん)づくりの20代目といったら、伝統を守り抜く、少々近寄りがたいイメージがあるかもしれません。しかし実際は、いかに時代の流れに寄り添い、伝統の技を後世に残すかを常に考える平成の世の人。そんな「和北堂(わほくどう)谷村家」の谷村丹後さんに、家業の継承から、伝統工芸の生き残りをかけた秘策に至るまでを伺いました。

室町時代から続く茶筅師の家に生まれる

奈良県の中でも緑豊かな北部、生駒市高山町。室町時代から国内で生産される茶筅の9割がこの地域でつくられてきたという茶道具の故郷です。
今回ご紹介する和北堂谷村家は、茶筅づくりの一派として500年以上もの間伝統を守り続けており、古くは徳川幕府より「丹後(たんご)」の名を与えられ、幕府御用達の茶筅師として活躍してきました。そしてその絶大なる信頼から、各流派の茶道の家元にも直接納めるなど、茶道界からの支持も篤いことで知られています。

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工芸品のように美しい谷村さんの茶筅

途方もない時の中で、茶筅の製造技術がこの地域だけに受け継がれてきた背景には、厳格に守られてきた「一子相伝」の秘技がありました。かつては技が盗まれることを恐れ、夜中に、親から子へと密かに技が伝えられ、家族で作業をしていたのだとか。

そんな歴史ある家に生まれた20代目の谷村丹後さんは、幼い頃は先代である父親の仕事をそばで見守る子どもでした。「家業を継ぐのだろう」というぼんやりとした思いはあったものの、実際は茶筅の原料の竹を干す程度の「家のお手伝い感覚だった」と谷村さんはいいます。

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毎年冬に収穫した竹を煮て、庭先に干す

都会の刺激に目覚めた高校、大学、サラリーマン時代

中学生までは地元の学校に、高校からは大阪の学校へ通うことになった谷村さん。のんびりとした雰囲気の高山とは違い、日本第2の都市・大阪での学校生活は「全てが刺激的だった」と10代の自分に思いを馳せます。

田舎町にないものが、大阪にはある。思春期の青年にとっては楽しくて仕方がなかったことでしょう。その影響があってか、この頃には「家業を継ごうとは全く思わなくなっていた」と語ります。そして大学卒業後は26才まで大阪の会社に勤め、27才から1年間は大阪の若者のメッカ・アメリカ村にある輸入雑貨店を経営する日々。大阪で気ままに一人暮らしをしていたそう。

家業を継ぐと決めた28才

一人暮らしを満喫していたものの、28才のとき、やはり両親の面倒を見なければと一大決心。雑貨店経営を辞め、地元・高山に戻ります。

「家に戻るからには家業を継ぐと決めていました」と話しますが、家で待っているものは、500年以上もの歴史ある家業。ただ技術を継承するのではなく、積み重ねられてきた膨大な時間も背負うということ。

そのことにプレッシャーを感じなかったのですか、と尋ねると「不思議とそれはなかったんですよ」と。「むしろ仕事が身近であった分だけ、なぜか自分にもできると思ってね」と笑って話す谷村さん。しかし現実は甘いものではなく「やってみたらとんでもなく難しい仕事だった」といいます。

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いくつもの細かな工程を経て茶筅が完成する

「だからこそ、この仕事をやり遂げてみたいと思えたんです」と前向きにとらえることができたのは、谷村さんの好奇心旺盛で、チャレンジングな人柄も少なからずあったはず。
そして、ひととおり技術を覚えるのに「10年かかりました」とも。「でもマスターしたわけではありません。現役を退いている父ですら、いまだに技術の向上を目指しているくらいですよ」という言葉に、茶筅づくりの奥深さを垣間見た瞬間でした。

茶筅生産の現状

ところで国内生産の9割を占める高山の茶筅は、現在でも全国から注文が多数寄せられる人気商品。しかし、原料となる良質な竹の生産量が減少したり、職人自体も少なくなるといった問題があり、一朝一夕に大量生産が難しい状況です。

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いまでは機械で製造された外国製品も多い。高山産とどのように差別化するかが大切

原料の竹が減れば生産量を増やすことは現実的に困難。また職人の担い手も少なくなるなかで、全ての注文に応えることも厳しい。これでは伝統と素晴らしい技術が活かしきれないうえ、ビジネスの機会も失ってしまいかねません。

それでは、せっかくの需要を失わないようにするにはどうするべきか。谷村さんは、これまでとは違う新しいアプローチも考えました。

茶筅づくりを“観光化”する

先述の通り、茶筅づくりは高山に伝わる独自の技法。では、この技法自体に付加価値を付けてみてはどうか。そこで茶筅づくり自体を「観光化」することを思いつきます。

実は先代が活躍していた昭和30年代より、一子相伝の技術は一般公開へとシフトしていきました。公開に踏み切った理由は、茶筅づくりの技術がいかに優れているかを広く知ってもらうことで、商品価値を上げることを目的としていたから。

というのも秘密裏につくっていた時代は、茶筅はあくまで実用品であり消耗品。単価もわずか1000円ほどだったといいます。しかし一方で、それまで秘匿としてきた技術を公開することは、技が盗まれるリスクを考えると大きな決断だったに違いありません。
ただし結果は大成功。少しずつですが、茶筅の価値が上がり始めます。

20代目の谷村さんは、先代の成功を糧にさらに一歩進み、自身の名を掲げて「茶筅づくり見学」「茶筅づくり体験」と銘打ち、商品化。これは一子相伝で作っていた名残で、茶筅づくりが主に夜間であるのに対し、日中に観光を行うことで、昼間の時間帯を有効に活用できる、という側面もありました。

そして「私たちの職人技を、お客様が楽しんでくれていることが何よりも嬉しいんです」とも話します。

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作業台の手前に並ぶ茶筅の製造工程。見学者はこの茶筅を目の前にしながら、谷村さんの作業を見学することができる
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英語版も用意されている充実したホームページ

この観光事業をインターネットのホームページやSNSで発信したところ、国内のみならず海外からも観光客が訪れるようになりました。特に春と秋の観光シーズンは、3日に1度は観光客向けに工房を開放するほどの盛況ぶりなのだとか。

「正直にいうと、海外からこれほど反響があるとは思いませんでした」と、インターネットの力を実感した谷村さん。さらには茶道や茶道具を全く知らなかった客層にも、茶筅の美しさや、希少な技術をアピールできるようになったことも、インターネットやSNSの影響といえます。こうして現代ならではの方法で、伝統工芸のビジネスに新たな可能性を加えることができました。

「家業を家業と思わないことが大切」

実用品だった道具が、国内外の観光客のフィルターを通すことで、工芸品、芸術品と呼ばれるほどになった茶筅。インターネットの影響で商品のオーダーも増え、直販価格では3000円台にまで上昇と、観光化が功を奏した結果になりました。

しかし一方で、生産と受注依頼を一手に引き受けているため、商品管理が煩雑になりがちな一面も。今後はどのように管理していくかが課題、といいます。

最後に谷村さんは、家業を受け継ぐ人へ、このように話していました。
「家業だから継がなくてはいけない、という受け身では継がないほうがいい。家業を家業と思わずに、いかにその仕事を好きでいられるかが大事です」と。また「“失敗できない”とプレッシャーを感じる必要もありません。たとえばお試し期間として、半年、1年と期限を決めてやってみると良いのでは」という現実的なアドバイスも。

家を継ぐことは、計り知れないプレッシャーとの戦いかもしれません。しかし、仕事の本質は自分に合うか、合わないかであることも事実。谷村さんの仕事は、仕事に携わる者の一番根底にある大切な部分を、改めて考えさせられるものでした。

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谷村 丹後(たにむら たんご)さん

奈良県生駒市高山町出身、500年以上続く茶筅師の20代目として生まれる。現在は茶筅の製造のかたわら、茶筅づくりの見学や体験も行っている。https://www.tango-tanimura.com/

執筆_中河桃子

中河 桃子

学生時代から現在まで、約18年以上ライター、編集業に携わる。文章を通じて、人やモノの温度が伝わるような親しみのある記事を書くことがモットー。3年前よりフリーランスライターとして、グルメ、旅行、ヘルスケア、ライフスタイルなど、多数のジャンルで執筆中。

編集/株式会社くらしさ

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