ビジネスパーソンとして多角経営を成功させた伊能忠敬

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ビジネスパーソンとして多角経営を成功させた伊能忠敬
2018/01/13 (土) - 07:00
SELF TURN ONLINE 編集部

地球1周分と同程度の距離を歩き続けました。17年間をかけてつくり上げた地図は、200年ほど前のものとは思えないほどの正確さ。伊能忠敬は「初めて実測日本地図をつくった人」として知られています。ただし、忠敬は49歳で隠居するまで、優秀なビジネスパーソンとして人生を過ごしています。実測による「地図づくり」に着手したのは55歳のとき。中老からの挑戦を支えたのは「地球の大きさを知りたい」という純粋な好奇心でした。

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イラスト:Maki Kanai

17歳のとき、伊能家の跡継ぎとして“引き抜き”に

実のところ、伊能忠敬は伊能家の生まれではありません。

生まれたのは現在の千葉県九十九里町。江戸時代後期の1745年のことです。母方の家系で、漁船や漁網を持ち、漁師を雇う網元の小関(こぜき)家の末っ子として産声を上げ、三治郎(さんじろう)と名づけられました。小関家は小関村の「名主(なぬし)」、いわば村役人も務める名家でした。

忠敬が6歳のとき、転機が訪れます。千葉県香取市にある伊能忠敬記念館で学芸員を務める山口眞輝さんはこう話します。
「母が亡くなったことで、婿養子だった父は小関家から離縁されます。父も神保(じんぼ)家という名主の生まれでした。忠敬は10才で神保家に引き取られますが、その後、親類や知人を頼り、ときに地元を離れて学問に励んだようです。このときに養われた知的好奇心がのちの地図づくりの原点になっていると考えていいと思います」

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伊能忠敬の蔵書目録[伊能忠敬記念館所蔵]
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山口さんの背後に展示されているのが忠敬らが製作した日本地図。214枚構成の大図は南北約47メートル、東西約45メートルにも及ぶ大きさだった [伊能忠敬記念館所蔵]

幼い忠敬が学問に励む一方、現在の千葉県香取市佐原(さわら)で酒造業を手がける伊能家に不幸が訪れます。一家の主である当主が亡くなってしまったのです。佐原の有力な商家である伊能家が新たな跡継ぎとして迎え入れたのが、まだ17歳の忠敬でした。

「神保家と伊能家の共通の親戚である平山家が推薦したようです。平山家が土木工事を行った際、監督を手伝った忠敬の働きぶりが見事なものだったから、といういい伝えも残っています」

4歳年上の達(みち)と結婚するにあたり三治郎から忠敬へと名を改めた少年は、ほどなく目を見張るほどの商才を発揮します。

腕利きのビジネスパーソンとして多角経営を展開

伊能家の十代目当主に就いた忠敬は優れたビジネスパーソンでした。忠敬が婿養子となったとき、伊能家の商売は停滞していました。若き当主は次々と事業拡大に乗り出します。

「一言でいうと、多角経営ですよね。本業の酒造業に加え、お米を含む穀物の取引や店賃貸などの不動産業にも取り組みました。江戸で薪炭問屋を経営したり金貸業も手がけたりして事業を拡大させています」

佐原の名門である伊能家の当主であり、多角経営によっておそらく地元に新たな雇用も発生させた忠敬が尊敬を集めるのは必然でした。36歳のときには佐原の名主に選出されています。

商人や名主として過ごすかたわら、忠敬は幼い頃に味わった学ぶことの楽しさを忘れてはいませんでした。知的好奇心を満たすべく文芸から算学に至るまで多岐にわたる書物を読みふけります。地図づくりにつながる暦学、今でいう天文学も独学で知識を身につけています。

ビジネスパーソンとしてはまさに腕利きで、酒造業、農業、米穀の販売仲買、不動産業、薪炭問屋の運営、金融業などを通し、29歳からの20年間で伊能家の年間売上を4倍近く伸ばしたほどです。忠敬が49歳のとき、伊能家の資産は現在の金額に換算すると一説には45億円もあったといわれています。

莫大な財産を築き、当主としての役割は果たしたという思いもあったのかもしれません。忠敬は49歳のときに家督を長男に譲り、隠居します。50歳になると江戸の深川に移り住み、自然や世界の在り方を解き明かす天文学を本格的に学ぶために弟子入りを果たします。

50歳を過ぎてから「自分がやりたいこと」に向き合う

師匠は高橋至時(よしとき)。幕府から改暦の業務を命じられた天文学者で、当時31歳でした。19歳も年下の人間に師事する――忠敬の「五十の手習い」は本気でした。熱心に天文学に打ち込む姿に感銘した至時から、天体運動の計算を意味する“推歩”(すいほ)という言葉をそのまま冠した“推歩先生”という愛称をもらったほどです。

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天体を観測する象限儀(しょうげんき)という器具[伊能忠敬記念館所蔵]

55歳のとき、日本地図の制作に着手します。実は地図づくりは口実に過ぎませんでした。至時と学ぶなかで「地球の大きさを知りたい」という好奇心が強まり、その探求を果たしたいという思いが地図づくりを実現させたのです。

「地球1周の距離を知るには、緯度1度分の距離が分かればいい。それが忠敬のアイデアでした。南北に遠く離れた地点間の距離と緯度差を比較対照すれば緯度1度分の距離が分かると考えたのです。最初に目指したのは今の北海道である蝦夷地でした。ただ、藩を渡り歩くには幕府の許可が必要です。そこで至時と忠敬は『正確な地図をつくります』と幕府に訴えて、承認を得ることに成功しました」

東北と北海道を皮切りに、73歳でこの世を去るまで、計10回にわたって日本全国の測量を続けます。初期の頃は業務に掛かる費用の8割ほどを忠敬が負担していました。商人として築いた大きな財産を「自分がやりたいこと」に費やした形です。

目印を立て、間縄(けんなわ)や鉄鎖(てっさ)という器具で距離を測り、象限儀(しょうげんき)という器具で天体を観測しながら現在地を把握し、その日実測した分を宿で地図にまとめる。そして江戸に戻ったら縮尺を変えて大きな紙に書き写す。地道な日々を17年も続けた忠敬は「地球の大きさを知りたい」という好奇心を見事、満たすことができました。彼が測り出した地球の緯度1度分の距離は、現代の値からわずか0.2パーセントの誤差しかありませんでした。

ただし、1821年、幕府に献上された3枚構成の小図、8枚構成の中図、214枚構成の大図を忠敬は目にしていません。3種類の地図が出来上がったのは忠敬の死後3年経ってからのことでした。

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伊能忠敬らが製作した日本地図[伊能忠敬記念館所蔵]

完成形を見ていないのは至極残念ですが、学ぶことを追い求めた50歳からの忠敬の人生は間違いなく濃密だったはずです。実際、測量の旅の間に娘に宛てた手紙で「商売を成功させるために志半ばで好きな学問の道をあきらめたが、隠居した今、いまだかつてない日本国中の測量に従事できているのは実にありがたい」といった内容を記し、充実感を知らせています。

好きなことを始めるのに年齢は関係ない。自分らしく生きる道を選ぶのに時期は問題にならない。忠敬の人生は、新たな挑戦を始めるのに早いも遅いもないという教えを伝えてくれます。

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伊能忠敬らが製作した富士山周辺の地図。忠敬は富士山の標高(3776m)の測定にも挑んでいた

文=菅野浩二 Koji SUGENO  写真=加藤夏子 Natsuko KATO
伊能忠敬記念館 THE INOH TADATAKA MUSEUM

profile

\教えてくれた人/
山口眞輝(やまぐち・まさてる)さん 

伊能忠敬記念館にて学芸員を務める。現在は2018年に控える忠敬翁没後200年を記念し、伊能図の原寸大複製パネル派遣事業を全国展開中。

伊能忠敬記念館の情報は下記のとおり。
住所:千葉県香取市佐原イ1722番地1
アクセス:JR成田線佐原駅から徒歩10分
開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日(ただし、祝日の際は臨時開館)
主な資料所蔵数:2345点(平成22年6月29日に国宝に指定)
HP:http://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/

SELF TURN ONLINE 編集部

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