シードルで青森のリンゴを盛り上げる。6次産業化に取り組む若きリンゴ農家、高橋哲史氏
工藤 健
2017/08/17 (木) - 08:00

青森県弘前市にあるりんご公園には、さまざまなリンゴの木が植えられており、その中に一軒の白い三角屋根の建物があります。「百姓堂本舗」の高橋哲史(たかはし・さとし)さんが建てた、リンゴのお酒・シードルを作る工房「kimori(キモリ)」です。現在、高橋さんはリンゴ農家として働く傍らシードルを出荷し、地域の活動や新しい担い手づくりにも積極的に取り組みます。しかし、かつてはリンゴ農家になることすら考えたことがなく、映画作りに憧れ、弘前を離れたこともありました。

弘前を出て東京で就職した青春時代

代々続く農家の長男に生まれた高橋さんでしたが、農業には関心がなく、両親からもリンゴ農家を継いでほしいと言われたこともなかったそうです。高校卒業を控え、進路を考えなければいけない時に見つけたのが、映画学校の生徒募集の広告でした。映画好きだった高橋さんにとって、映画を仕事にすることは願ってもないことだと気づき、神奈川県の専門学校へ進学することを決めたといいます。

専門学校を無事に卒業し、都内の映像制作会社に就職。テレビなどの製作現場を経験しつつ、仲間たちと劇団を立ち上げるなど、夢に向かっていました。しかし、転機が訪れたのは27歳の時。母親のガン宣告でした。

その土地でしかやれない仕事=リンゴ農家だった

母親のガンをきっかけに、収穫などの繁忙期に帰省して農作業を手伝うようになった高橋さん。次第にリンゴ農家という仕事に興味を持ち始めるようになります。リンゴは通年で作業が必要となる果物で、木や土の世話のほか、摘果や玉回しといった作業を行います。

その中で高橋さんが興味を持ったのは剪定でした。リンゴの剪定とは、枝を切ることで木の力をコントロールし、果実に栄養を回させるようにすること。日の当たり方や風向きといったことまで農家によっては計算して行うと言われ、また、農家や農地によっても手法はさまざまあるそうです。

「冬の雪深い中で行う剪定は、リンゴの味をほとんど決めるといっても過言ではない。この剪定が奥深く、飽きることがないですね」。

2年ほど手伝った頃、高橋さんの頭の中でUターンという生き方が浮かび始めたといいます。
「母親の余命宣告がリンゴ農家をやろうと思ったきっかけですが、自分が今やるべきことは何か、そしてその土地でしかできない仕事を考えた時、弘前に戻りリンゴ農家をやろうと決めました」と振り返ります。

東京でしかできないことを求めて上京したつもりだった高橋さん。しかし、決め手となったのは、地元でしかできないリンゴ農家という生き方でした。

リンゴ農家としてUターン、発見する地元の魅力

高橋さんがリンゴ農家として通年で作業を始めたのは、2003(平成15)年のこと。最初の4、5年は失敗の連続だったそうです。しかし、剪定といったリンゴを育てる楽しさを実感しながら独り立ちをしていくと、東京での仕事に後悔はなくなったとか。逆に、津軽富士と呼ばれる岩木山の裾野に広がるたわわと実ったリンゴ畑やそのリンゴのおいしさに感動を覚え、100年以上と受け継がれて来た先人からのバトンをつなぐ意識が強くなっていきました。

それと同時に地元・弘前にも魅力を感じるようになります。高橋さんはリンゴ農家の息子ではありましたが、今までリンゴの魅力に気づくことはなかったそう。

「高校までは当たり前だと感じていたリンゴ農園の景色やリンゴの美味しさ、仲間たちと畑で過ごせる空間が、この弘前という土地でしかできない贅沢さだと感じるようになった。リンゴ農園に人を呼び込めるようになれば、地元の人たちもこの豊かさに気づいてくれるかもしれない。そんなことを思うようになりました」

一方で高橋さんが就農した30歳という年齢は、リンゴ農家としては若く、改めて農家の高齢化を感じることになりました。若い担い手不足や耕作放棄地の増加など、10年、20年後にはさらに深刻な問題になるという危機意識を持ち始めます。「自分にできることは何かあるのだろうか…」そんなことを考え始めた矢先に事件が起きました。雹(ひょう)被害でした。

雹被害からシードル工房の立ち上げへ

リンゴは少しでも傷があれば、その価値は下がり、市場では安価に取引されてしまいます。加工用に回されたり、その場で廃棄されたりするケースもあるそう。2008(平成20)年に起きた凍霜(とうそう)・雹は5月、6月、9月と3回に渡って発生。それにより多くのリンゴが被害にあいました。青森県の発表によると、その被害額は県全体で約90億円。被害面積は約1万2千ヘクタールにも算出されるという甚大な被害だったそうです。

廃棄されるリンゴを目の当たりにした高橋さんは、リンゴを生食以外で流通させる6次産業化の必要性を強く感じたといいます。そこで、就農以来考えていたアイデアと結びつきます。「人が集まる場所にはお酒があり、人が集まれるリンゴ農園でリンゴのお酒を飲むことができれば!」。「シードル」としてアイデアが形になるには、そんなに長い時間はかかりませんでした。

しかし、いざ動き始めると、理解者はすぐには増えませんでした。むしろ逆風や、否定的な意見を述べて協力もしてくれない人の方が多かったといいます。それでも諦めなかった高橋さんは、商工会議所に入って少しでも多くの賛同者を集め、リンゴ農家らを仲間にして、みんなが集まりシードルを楽しめるようなリンゴ農園作りに向けて動き始めていきます。そして2014(平成26)年に「百姓堂本舗」を立ち上げ、同時に完成したのが、弘前シードル工房「kimori」でした。

キモリ(木守り)とは、収穫が終わったリンゴの木に一つだけ残す果実のこと。その年の実りへの感謝や翌年の豊作を願い、畑の神様にささげるためなのだそう。「先人たちが守り、築き上げてきたものを将来へとつなぎたい」という思いが込められた名前でもありました。

リンゴを次の世代へ

創業してみると、想定していなかった人たちからの反応が大きかったといいます。地元の人たちにリンゴ農園という贅沢な場所を伝えることから始めたつもりでしたが、県外から訪れる観光客に好評でした。高橋さんは「何度も足を運んでくれるような人もいて、新しい観光コンテンツとして青森を発信できるようになりました」と嬉しそうに話します。

現在、高橋さんはさまざまな品種の違うリンゴを使ったシードルの製造や、新しい取り組みとしてリンゴ農園で行うグランピング(リゾートスタイルのキャンプ)、若い担い手の育成などにも力を入れています。

「リンゴが地域にとって大切なもので、リンゴが持つ豊かさをこの土地に住む人たちに気づいてほしい」。高橋さんの思いは帰郷以来、何も変わっていません。

一度弘前を離れ、東京での生活を送ったからこそわかる地元の豊かさ。だからこそ農家の高齢化や後継者不足といった課題にも取り組み、次の世代へリンゴづくりの魅力を伝えていくことこそが自分の使命だと語ってくれました。

「リンゴ農家になりたいといった若者が現れても、現状ではなかなか就農しにくい。kimoriが受け皿となり、リンゴの魅力を発信し続けることができれば」。

全国1位の生産量を誇り、青森県弘前市の基幹産業であるリンゴ。そんなリンゴの将来を誰よりも考え、次の世代へバトンを渡す高橋さんの挑戦はまだ始まったばかりです。

高橋 哲史さん

1973年、青森県弘前市生まれ。高校卒業後、日本映画学校で映画を学び、映像製作の仕事を経てUターンし就農。2012年に株式会社百姓堂本舗を立ち上げる。kimoriは2014年度グッドデザイン賞を受賞。

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