家族とともにIターンした地で、デザイン会社や飲食店を始めた画家・井上信平氏

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家族とともにIターンした地で、デザイン会社や飲食店を始めた画家・井上信平氏
2017/12/01 (金) - 08:00
工藤 健
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故郷の兵庫県から1200キロも離れているという青森県に在住し、デザイン事務所を経営している井上信平(いのうえ・しんぺい)さん。縁やゆかりがあったわけではなく「青森ねぶたの絵師になりたい」というかつての夢を追いかけ移住したといいます。しかし、その決断や移住後の生活にはさまざまな苦労や挫折もありました。

兵庫からアメリカへ留学

「手に職をつけて泥棒に入られても盗まれない、ものづくりをする人間になれ」と父親から教えられて育ったという井上さん。そのためか幼少のころから絵を描くことが得意だったといいます。

好きな言葉は「interesting(インタレスティング)」。「おもしろい」と「興味がある」という意味が同じ言葉で表現されている英語に関心をもちました。この言葉が後にアメリカに留学するきっかけにもなったと振り返ります。

転機が訪れたのは高校2年生のころ。学習塾の恩師から海外留学を勧められ、父親に相談したところ二つ返事で了解を得られたのです。「父親もかつて海外へ行く夢をもっていたがあきらめていたことがあった。その夢を自分に託したこともあったのではないでしょうか」と井上さん。

高校卒業後は日本を飛び出し、アメリカのユタ州立大学でグラフィックデザインの勉強を始めました。しかし実は、このときからすでに井上さんと青森を結びつける出来事がありました。

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▲アメリカ留学中の井上さん

夢をあきらめず青森に移住を決意

1990年代は個人でもインターネットが使えるようになっていたころで、井上さんはアメリカにいたこともあり、早くからインターネットを使える環境にありました。そこでたまたま検索した「日本の三大祭り」というワードに、「青森ねぶた」が表示されたのだそう。

「小さい画像だったのですが、闇夜に力強く運行する赤や黄、紫や緑の鮮やかなねぶた絵が印象に残り、いつか青森に移り住み、自分もこういう絵を描きたいと考えるようになりました」

しかしそれは、そのときに描いた夢でしかありませんでした。

大学卒業後は、帰国して地元の印刷会社に就職。アメリカでの経験が重宝され、チラシやポスターなどのデザインを担当しました。また、プライベートでは結婚をして子どもが生まれ、順調な人生を歩み始めていました。

ところがあるとき、井上さんのなかで違和感を覚えた瞬間があったと話します。「このままの生き方は何か違うのではないか」そのとき思い出したのが、青森ねぶたでした。

「ねぶた絵師になる夢を忘れてかけていた。小さいころからいろいろな夢をもってはいましたが、どれも叶えることができていませんでした。一度しかない人生、このままでいいのだろうかと思って」

悩んだ末に出した結論は、仕事を辞めて青森に移り住むことでした。

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▲インタビューに応じる井上さん

もちろん家族からの反対がありました。特に義母は孫が生まれて間もないこともあり大反対。しかし、井上さんの両親はアメリカより近いから大丈夫と反対もせず、そして義父が「夢は叶えなあかんな」と背中を押してくれたおかげで義母が一転して賛成してくれることに。ところが、それよりも大変なことは移住後に起きるのでした。

「不安しかなかった」青森での生活

青森に移住すると決めたものの、井上さんは青森に行ったことすらありません。手探りでまずは青森市役所にメールをし、「ねぶた絵師になりたい」と単刀直入に伝えたといいます。

そこで助言を受けたことは「仕事」と「住居」を決めることでした。さらに井上さんはねぶた絵師から「地に足をつけていない環境で、不安を抱えた人が描いた絵は不安な絵になってしまう。何十万何百万という多くの人に見てもらうねぶた絵がそんな不安を与えてはいけない」とアドバイスされたんだそう。

一度決めたことを今度こそあきらめなかった井上さん。青森で印刷会社でのデザインの仕事を見つけ、住むところも決めることができました。しかし、貯金は底をつき、不安しかなかったと振り返ります。そんなときに出合ったのが「岩木山」でした。

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▲津軽富士の愛称で親しまれる岩木山。見る角度によって形が変わる

「仕事の面接で移住する前に青森へ訪れたことが一度ありましたが、曇っていたため岩木山を見ることがありませんでした。兵庫のアパートを引き払い、フェリーと車を乗り継ぎ到着した青森で、初めて岩木山と対面。目の前に現れた瞬間『ようこそ』といわれた気がして、『自分はこの山に呼ばれて来たんだ』と感じましたね」

それからというもの、職を失い絶望したとき、次男が生まれたとき、長男が腕を複雑骨折し救急車で運ばれたとき、会社を辞め独立したとき、いつも岩木山は見守っていてくれたと話します。

ねぶた絵ではなく岩木山の絵を描き始めたのも、いつも見守ってくれる岩木山に対する思いからだったそうです。

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▲赤い岩木山で知られるようになった井上さんの絵。ねぶた絵の配色が意識されているとも

いまでは井上さんの描く岩木山に、地元のみならず県外にもファンが現れ、絵画教室を開いたり、個展を開催したりするほどになりました。井上さんは「すべて岩木山のおかげです」と笑顔を見せます。

新たな事業、そして今後のこと

会社を辞めて独立したのは2011年でした。これまで学んだ知識や技術を生かし、青森の発展の一助になりたいという思いから独立することに。だからこそ立ち上げたデザイン会社は印刷物やホームページのデザインを考えるのではなく、依頼主と一緒に課題を考えて改善させていくという、コンサルティングに近い業務を目指しているといいます。

そして、2015年にはグルメバーガー店を開業。アメリカで在学中に1日3食がハンバーガーだったくらい好きということもありましたが、青森の食材を活かしたハンバーガーをつくりたいという思いがあったそう。また、青森に女性が活躍できる場所をつくりたいと考えたことも大きな理由だったといいます。

「共働きをしていた妻を見て、子育てをしながら女性が働ける場所が青森には少ないと感じたことがきっかけでした。青森が好きで、この地の今後を考えたとき、女性が活躍できる場所をつくることが大事なのでは」と井上さんは語ります。

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▲弘前市役所隣にあるハンバーガー店「デュボワ」

現在も岩木山を描く画家としての活動を続けながら、デザイン会社とグルメバーガー店を経営という二足以上のわらじを履く井上さん。地元の青年会議所などに所属したことで、逆に県外との交流も増えていると話します。

そして、そんな人たちに対し青森での生活を自慢することもあるのだとか。
「週末になればレジャーテントを持ち出し、車で1時間もないところにある白神山地などで、混み合うこともなくすぐにキャンプができるような環境にいます。都会では考えられないような贅沢だと感じています」と井上さん。

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▲家族と一緒に楽しむというキャンプ

青森という土地で苦難や挫折を乗り越えてきた井上さんだからこそ、青森の魅力に地元民以上に気づいているところがあります。

「地方には都会にはない魅力がたくさん眠っている。意外と地元の人たちはそれに気づいていないことが多く、外から来た『よそもの』だからこそ見つけることができる視点で、青森をいま以上に盛り上げていきたい」と力強く語ります。

実現した形は当初に思い描いたものと少し違っていますが、自分の夢をあきらめずに進んだ井上さん。彼が描く世界は、確実に青森にいる今が広く深いものになっているのではないでしょうか。

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井上信平(いのうえ しんぺい)さん

1974年、兵庫県宍粟市生まれ。アメリカ・ユタ州立大学卒業後、帰国して地元の印刷会社に就職するが、2002年に青森へ移住する。2011年には「0172デザイン事務所」を立ち上げる。

工藤プロフィール

工藤 健

フリーランスのライター。東京でウェブライターを経験後、2012年に地域新聞の発行のために青森にIターンする。現在は地域の魅力発信や課題に取り組む。

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